「ういます」

兼業農家の跡取り息子でも、商工会との関わりは案外と古い。
いつ頃から始まった慣習かは定かではないが、旧東商工会では毎年日めくり暦を地区全戸に配布していた。古い我家の薄黒くきたない壁に新しい真っ白な暦が掛かると、その周辺が「ピリッ」とまぶしく、それだけでなにかこう誇らしく、またうれしい正月の到来を感じさせる大切な一品だった。

やっとひらがなが読めるようになった5〜6才のある日、その暦に「毎度有難う御座います」なる文字をあらためて発見した。読めない漢字は勝手にとばし、ひらがなの部分だけを拾い読みして「ういます」と読めても言葉の意味がどうにもこうにも解らない。意味不明な言語に困ってしまった。

家族が集まる夕飯どき、暦の文字をなぞりながらその意味を聞いた。親は笑っているだけで教えてくれなかった。おそらく年端のいかない子どもに意味を説明してもしかたのないことと思ったのだろう。そんなことをきっかけに、ひとしきりその暦のことについて家族で談笑がつづいた。

食事といっても、土間のむしろに戸板のようなもの一枚「バンッ」と敷いただけの食卓。それを囲み、粗末な夕餉のひとときを無邪気な会話で家族が和むことができたことで、子どもなりの役割は今にして思えば知らずに担っていたとは思うものの、それを発行した「しょうこうかい」という会の不思議さと、その「ういます」という言葉の疑問は長いこと残った。

calender

もう少し、趣味について

先日、音楽プロデューサーか評論家だったかは忘れたが、こんな発言を聞いた。「そもそもギターにまったく才能のカケラもない人が簡単に手を出しすぎる。」
自分のことを言われているようで赤面のかぎりであり、返す言葉もない。その評論家氏の発言の真意はわからない。マスコミは、その人の全体を発言を理解せずに言葉尻だけをとらえて報道するからだ。
10年くらい前、ある会社を訪問した際、女性社員の車にゴルフバッグが積んであるのを見てその女性に聞いた。「○○さんはゴルフをされるようですが、どれくらいのスコアで回るんですか?」「最近始めたんですが、170くらいかな…。すっごくおもしろい。スカッとしてもうやめられない。」「……。」
それぐらいのレベルのプレーはゴルフとはいわないし、おもしろいわけがない。もちろん「スカッ」ともしない。と思うのだけれど、そう言うと評論家氏のようになってしまうので言わない。アマは170〜70前後でプレーする人達がいてゴルフ人口を支えている。石川遼のドライバーやウッズが200ヤードからピンそばに落とす妙技は、かじった者だけが解る、それは至高な世界なのである。
話をギターに戻せば、アルハンブラの想い出、魔笛の主題による変奏曲などなど、つかえながら練習していると、本当に才能がないなと心から思う。であるからこそ、プロの演奏になおさら感動するのである。その道で一流のプロの凄さが理解できるだけでもそもそもめっけ物であって、もっと簡単に手を出していいのである。

万年筆

 万年筆がここへきて静かなブームになっているという。文字を書くのに筆記具からワープロ、ワープロからパソコンへと変わり、しかも読みやすく手軽に文書を作れるという便利さに慣れ親しんだ今、それに飽きてきた人達が、なめらかな万年筆の感触を再認識し、加えて個性を主張し出したのだろう…と、マスコミは解説している。
 私は10代の頃から万年筆で手紙やはがきを書いてきた。50代になった今でも変わらず万年筆の世話になっている。「万年筆の書き味が…」などと高尚な動機ではない。もっと切実な問題なのである。
 私は決して悪筆ではないと思うが(少なくとも自分ではそう思う…)かと言ってもちろん達筆でもない。でも手紙やはがきを書くとき、どうせなら相手に「上手いな」と感じてほしい。ボールペンでは文字の骨格がモロに出てしまってどうしても乱雑な書面になってしまうので、そこで、骨格をうまくごまかせる「極太万年筆」の出番となるわけである。はがきなどはあまりうまく書面がまとまらないが、便箋にしたためたとき「上手」そうに見えるところがいいのである。
 極太万年筆を使うコツは、速くササッと書くのではなく、漢字の一文字一文字を省略せず「へん」と「つくり」をしっかり書き込んでいくのである。そうするとかなり見ごたえのある書面になってくれる。イコール上手そうになってしまうのである。
 私の周りの人達は私が達筆だなどとは思っちゃいないし、むろん自分でも思っていない。しかし過去に私の手紙を受取った人達は、私が相当な達筆であると錯覚しているかもしれない。いや、是非そう願いたいものである。

mannenhitu

何のための健康か

 母は脳硬塞による痴呆で3年寝たきりの後、往った。父はアルツハイマーの痴呆、寝たきりを13年経て往った。両親を介護してくれた妻は言う。「あなたはどっちから考えても痴呆と寝たきりのサラブレッド」。
 健康志向が語られて久しい。以前は「病気がちな人がいかにすれば健康をとりもどせるか」が、ウェートを占めていたのが「この健康を持続するにはどうするか」が、議論され、さらに進化して「健康でいて何をするのか」と、語られはじめた。健康であってもゴロゴロとテレビを見ているだけだとしたら—夫婦でダラダラ愚痴を言い合っているだけだとしたら—健康とは言えなくなってきている。
 妻のキツイ宣告に反発するようだが、内心、私は痴呆にはたぶんならないなと、近頃確信めいたものをもっている。それは10代の頃から指先を一生懸命動かし続けてきたクラシックギターにほかならない。どうしても弾けなかった名曲が、汗をかきかきどうにか暗譜できたときの感動は、どう表現したらいいか言い表せない。しかも中高年になってその暗譜力は益々増してきているように思う時、楽しくて、うれしくて、もったいなくて、とても痴呆になっていられない。そしてその感動を、充実感を持続するための体力づくりはもちろん欠かせない。さらに日本文や英文の音読も脳の活性化にかかせない。それらは仕事の感動はもちろんのこと、暗譜の感動のためにある。
 プロスキーヤー三浦雄一郎氏は叫ぶ。「何のために健康でいるのか。その目的があるから健康の価値。充実した人生がある」

カラオケ考

カラオケは進化し続けて今、私が思うに第三世代になっている。
第一世代はLPレコードと店主が手書きの歌詞カード。選曲といえばレコードの曲と曲の間の1.5ミリくらいの隙間に針を落とすという職人技が要った。レコードはたまに「跳んで」しまうことがあって、途中どの小節に跳んだとしても少しも動じない精神力と歌唱力が試された。
第二世代は8トラと、ようやく丸ゴジックの活字の歌詞カード。選曲は簡単になったがテープの劣化により伸びている小節が出て来る。が、平気に唄いきる実力が要った。
そんな頃よく仲間とスナックに行った。5人くらいで飲んでも唄うのは私ともう一人くらい。10人くらいの団体で行っても私ともう2人の3人くらい。他の人に勧めると「いやーおれはカラオケはどうも・・・」
「そうだろうな。オレぐらい上手に唄っちゃうと唄いづらいだろうな」と思ったものだ。

ところが第三世代のCDとモニターになった頃から生態に変化が出てきた。今まで唄わなかった人たちがドンドン唄いだしてきた。しかも困ったことにその大半の人たちが私なんかよりはるかに上手いのだ。
「なぜそんなに上手いのに唄わなかったのだろう? それじゃいったい全体私の唄をどう評価しながら聞いていたのだろう? それよりもこの人たちは何を考えて生きてきたのだろう?」
いろいろな疑問がわいてきた。うっかりこのまま調子に乗って唄っていると、いつか足下をすくわれてしまうかも知れないぞ。くわばらくわばら。もう少し慎重に生きよう・・・。
暫くは唄えない日々が続いた。

でも、ただチビチビ飲んでいるだけだったら家で飲んでても同じである。わざわざスナックに行ってそこで飲んで唄うことで不況のストレスを発散できるのだから、それならばおおいに唄おうと、いつの頃からか気を取り直して、それでも控えめに「ヘタですが、それでは一曲唄わせていただきます」と唄うようになった・・・
・・・・が、ちっとも気分転換にならない。
「オレはうまい。皆さんはよく聞いていなさい。」それくらいの気分で丁度いいのである。

謙虚さと自信に満ちた唄い方のバランスは結構難しい。

趣味は世界平和への第一歩

 我が家の隣の爺さんは10年前に亡くなった。92歳だった。私のおふくろの葬儀を見送ったあと、急に体の変調を訴えてそのまま逝った。長く床につくことなく大往生だった。
爺さんは多趣味だったが、とりわけ凄かったのはその持ち前の頭の良さというか記憶力を駆使して、南魚・北魚の全集落名、県内112市町村名は言うに及ばず、世界183ヶ国の国と地域名を暗記していることだった。
我が家にもよくお茶を飲みにきて、誰も頼まないのに滔々とそれを披露し、その知識に感服している私たちを尻目にうれしそうに帰っていく好々爺だった。

バブル景気の頃、大和町にいわゆる外国人労働者の方々が大勢働きにきていた。その人たちが鋪装工事で私の村にきた。
労働者が爺さんの家の前で休憩をしていた時、ヒョッコリ玄関から出てきて、彼らにたずねた。
「黒人の方々がいっぱいいらっしゃるが、どこから来られたかな?」
片言の日本語が話せる一人が言った。
「ジイチャン、ワタシタチハ『ジャマイカ』カラキマシタ。ジイチャン、『ジャマイカ』ワカリマスカ?」

言った相手が悪かった(というか、良かった)。
「ほ〜か、ジャマイカはカリブ海の中心にあってハイチ、ドミニカ、ホンジュラス、キューバに囲まれた国だ。ボーキサイトを主原料にして発展してきたが、最近では観光にも力を入れている。首都はキングストンだ。」
これを聞いた労働者たちは驚いた。日本語はわからなくても、その地名の発音で自分たちの国や周辺の地域が魚沼なまりではあるが聞き取れたからだ。
10数人の労働者たちは涙を浮かべながら爺さんに替るがわる握手を求めたという。

酒は一夜にして7人の友を作るといわれる。しかし、地理の趣味は一瞬にして数百人の友を作ることができる。
もしかして世界平和もそんなことから実現できるかもしれない。

世界平和の第一歩